ウラニーノ1年半ぶりとなる3rdアルバム『情熱の温度』が9月13日に発売となる。早速届けられたサンプルCDをセットすると、スピーカーからは予想外にも、エレキギターの激しいイントロが流れてきた。ウラニーノが遂に“ヘボロック”卒業か? しかしその歌詞を聴き進めるうちに、やはりウラニーノはウラニーノであったと、なぜか胸をなで下ろす自分がいた。切り裂くようなギターや力強いドラムやビートとは対象的に、その内容は、やぶ医者だと知りながらも、主治医のもとへ通ってしまう「私」の姿を告白する歌なのであった(〈続・やぶ医者とわたし〉)。「言われるままにされるがままに 私は臓腑をさらけだす/わかってはいるのよ 気づいてはいるのよ/彼はやぶ医者 だけどやめられない」。M的なまでの“症例”をみせる彼女が通うべきは明らかに別の科だろう。いやその前に、この歌はアルバム冒頭にもってくるような内容だろうか?!
もちろん、ウラニーノだからこそそれは許される。アルバム全体を通して明らかになるのは、社会のルールに従順な大人になることを頑なに拒み続ける彼らの、高らかなモラトリアム宣言なのであった。
振り返ってみると、ウラニーノの歌すべてに共通しているのは、「私」が「他者/社会」と上手くコミュニケートできないという構図ではないだろうか。しょうもない僕と彼女の間には大きな溝が横たわっている、そんな関係。しかしそこに絶望するのではなく、そんな自分を笑い飛ばしたり、切なさのなかにもかすかな希望を感じさせる一瞬を垣間見せる。今作ではそのブレンド具合が絶妙で、歌詞世界の虚構性を高めることで逆に主人公の感情の純度がいっそう浮き彫りになり、現時点での“ウラニーノワールド”の金字塔を打ち立てたと言っても過言ではないだろう。
2曲目の〈朝焼けバラッド〉は、都会の生活の中で疲れた若者が、ふと故郷の母親に電話をかけようと公衆電話の受話器を握る(が、かけることができない)という心の揺れを描く。バイトをクビになったり、スピードを追い求める社会に疑問を抱いた瞬間だったり、好きでもない女を抱いてしまった朝だったり、そのきっかけのディテールがやけにリアル。「ママ〜」と語りかけるその口調は、若松孝二の傑作映画『ゆけゆけ二度目の処女』(1969)の劇中で唄われるあのブルースをも思わせる名曲となった。
タイトルチューンとなった〈情熱の温度〉は、1stの〈僕のロケット〉、2ndの〈ココロメカ・メカココロ〉に続く、毎作必ず取り挙げられる“メカもの”の傑作である。「言葉にならなくても 形にならなくても/ただ静かに燃やし続ける」ものと信じる僕に反して、「目に見えないものなんて信じられないわ」と彼女がとりだす「情熱の数値を計る」奇妙な機具。その架空の機具の形状は最後まで明かされることなく、なにやら安部公房やボリス・ヴィアンのSFを彷彿とさせる設定は、聴く者の想像力を強く刺激するに違いない。封入のライナーには山岸による「似非小説バージョン」も収められているというから楽しみだ。
続く〈花ともぐら〉は、夜行性であるもぐらが月明かりの下で花のツボミを眺めながら、太陽のもとで咲く花の姿に思い焦がれるという、これまたぶっ飛んだ内容の歌だ。おとぎ話的な形をとりながらも、ここでもやはり両者は決定的にすれ違い続け、願いは成就することなく「もぐらは今日も月に泣」く。切々と歌いあげる山岸のボーカルにその情景を思い描きながら、こちらも胸を打つ。
アルバム終盤に置かれた〈龍〉は、誰もが思いあたるような学園風景を題材にした、ウラニーノが初期から得意とするいわゆる“学校もの”の一つだが、今作では、体育の授業でプールに入らないのは背中に「昇り龍」を背負っているからだ、とまるで漫画のような突き抜けた設定が新しい。そしてそれは自ら刻んだのではなく、家を出て行った父親に彫られたものであり、「誰にも言えない秘密」となっているのがウラニーノらしい。そして理由もわからずママが泣いていることよりも、明日もプールがあることが「ぼく」は憂鬱だ。
ウラニーノの歌には、ドライブや海も、携帯やメールも出てこない。自転車や各駅停車、舞台はせいぜい河原の土手や駅のホームである。でも実際の生活はそんなにキラキラしているだろうか? 彼らの歌には、単なる妄想の戯言だと決して言い切れない何かがある。処世術を身につける替わりに捨ててきてしまった心の在り処。ウラニーノワールドこそ真のユートピアなのかもしれない。まだ未体験ならば、インディーズ界屈指のオリジナリティを誇る彼らの世界を、年間100本を超えるライブをこなす定評のあるパフォーマンスと共に存分に味わって欲しい。
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